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みなさん、こんばんは。
今日はやさし風が強い!!沖出られんな・・・
ん~、今日の話題は瀬戸大橋が出来るまで・・・
瀬戸大橋建設 ~杉田秀夫~
四国の橋を築く本四公団坂出支所 前線本部
赴任した所長は作業服姿の杉田秀夫だった。
飾り気のない男だった・・・
激しい潮が渦巻く海の底に土台を築く前例のない工事
所長の杉田が自ら海中に飛び込んだ。
潮の速さは風速70mに匹敵した、海の強暴な姿をみて杉田は言った・・・
「海は巨大で怖い、ちっぽけな人間の精神力は通用しない
生意気なことは考えてはいけない」
昭和48年 オイルショックにより工事は無期延期となった。
沈み込むメンバーに杉田はこの時間を無駄にするなと言った。
杉田は皆を集めて言った・・・
「逆境の中でやり遂げる執念が必要だ
後の世に人に笑われない仕事をしよう」
海底の砂や石を取り除く爆破実験、衝撃で多くの魚が死んだ。
杉田は地元の漁師たちの元に通った。
火薬の量、死んだ魚の数、杉田は包み隠さずすべてを話した。
漁師から胸ぐらをつかまれても穏やかに説明を重ねた。
やがて杉田の人柄に輪ができた。
昭和53年 工事は5年ぶりに再開した。
この時、杉田には部下の誰にも告げていない秘密があった。
仕事が終わると杉田は毎日、自転車で病院に通った。
最愛の妻、和美が胃がんで倒れ入院していた。
痛みを訴える和美の背中をさすり毎晩添い寝をした。
朝は家に帰り3人の娘の食事を作った。
半年間そうした日々を過ごした。
クリスマスイブの朝、杉田の腕の中で和美は亡くなった。(享年34歳)
杉田の嗚咽が病室の外にまでもれていた。
和美の死を知ったメンバー達、誰にも言はなかった杉田に胸が詰まった。
年が明け工事最大の山場を迎えた、橋の土台ケーソンを海中に沈める。
しかし異常が起きた、海底でケーソンが傾いた。
杉田は真っ先に海に飛び込んだ、ケーソンの下に大量の砂が詰まっていた。
潜水士のある男が大胆な案を出した・・・
「周りを掘ればケーソンの重みで砂が押し出されるのではないか」
杉田は号令を発した。
信念の言葉があった・・・
「五分五分ならばやる方にかける」
海中で始まった砂の吸い出し作戦、見事成功した。
昭和63年 4月 瀬戸大橋は開通した。
名指揮官と称えるまわりに杉田は言った・・・
「事を計るは人にあり、事の成るには天にあり
個人の業績など、まことにけちくさいことなのである」
その後、杉田は現場に立とうとしなかった。
昇進も望まず、男でひとつで3人の娘を育てた。
朝晩の食事を作り、片づけをし、娘たちの洋服にアイロンをかけた。
平成元年 杉田は母校の高校で講演した。
伝説のリーダーは意外にも次の言葉を残した・・・
「橋をつくるということの経験が、人より多少に余計にあったからといって
これは人生の価値と全く別のことなんですね。
偉大なる人生とは、どんな人生を言うのかということなんですが
これは非常に難しい問題でありまして、瀬戸大橋をつくるよりはるかに難しい」
橋をつくり家族を守る、二つの大仕事を成し遂げた男の言葉だった。
杉田 秀夫 平成5年この世を去った。
杉田秀夫の言葉
「偉大なる人生とは何か、橋を作ることよりもっと難しい人生がある」
ん~ 橋を作ったことがないんで分からないんですが・・・
やっぱりもの凄い事だと思いますね!!
杉田秀夫さんの仕事に対する意気込み、勉強になるなぁ~
「なせばなる なさねばならぬ なにごとも ならぬは ひとの なさぬなりけり」
上杉鷹山は弱冠17歳で、米沢藩主として家督を継ぎました。
戦国時代の名将、上杉謙信公の流れを汲む名藩も、彼が藩主になった頃は激しい財政危機に瀕しており、ただちに藩の財政改革を行う必要がありました。
鷹山は「質素倹約」を信条とし、彼自身が率先・実行しました。若い藩主の厳しい改革に、当然のことながら先代からの重臣による強い反発もあったようです。
しかし彼は、藩政立て直しの心構えとして「なせばなる……」と自らに、また藩士藩民に説き続け、その結果見事に藩を立ち直らせたのです。
今日はやさし風が強い!!沖出られんな・・・
ん~、今日の話題は瀬戸大橋が出来るまで・・・
瀬戸大橋建設 ~杉田秀夫~
四国の橋を築く本四公団坂出支所 前線本部
赴任した所長は作業服姿の杉田秀夫だった。
飾り気のない男だった・・・
激しい潮が渦巻く海の底に土台を築く前例のない工事
所長の杉田が自ら海中に飛び込んだ。
潮の速さは風速70mに匹敵した、海の強暴な姿をみて杉田は言った・・・
「海は巨大で怖い、ちっぽけな人間の精神力は通用しない
生意気なことは考えてはいけない」
昭和48年 オイルショックにより工事は無期延期となった。
沈み込むメンバーに杉田はこの時間を無駄にするなと言った。
杉田は皆を集めて言った・・・
「逆境の中でやり遂げる執念が必要だ
後の世に人に笑われない仕事をしよう」
海底の砂や石を取り除く爆破実験、衝撃で多くの魚が死んだ。
杉田は地元の漁師たちの元に通った。
火薬の量、死んだ魚の数、杉田は包み隠さずすべてを話した。
漁師から胸ぐらをつかまれても穏やかに説明を重ねた。
やがて杉田の人柄に輪ができた。
昭和53年 工事は5年ぶりに再開した。
この時、杉田には部下の誰にも告げていない秘密があった。
仕事が終わると杉田は毎日、自転車で病院に通った。
最愛の妻、和美が胃がんで倒れ入院していた。
痛みを訴える和美の背中をさすり毎晩添い寝をした。
朝は家に帰り3人の娘の食事を作った。
半年間そうした日々を過ごした。
クリスマスイブの朝、杉田の腕の中で和美は亡くなった。(享年34歳)
杉田の嗚咽が病室の外にまでもれていた。
和美の死を知ったメンバー達、誰にも言はなかった杉田に胸が詰まった。
年が明け工事最大の山場を迎えた、橋の土台ケーソンを海中に沈める。
しかし異常が起きた、海底でケーソンが傾いた。
杉田は真っ先に海に飛び込んだ、ケーソンの下に大量の砂が詰まっていた。
潜水士のある男が大胆な案を出した・・・
「周りを掘ればケーソンの重みで砂が押し出されるのではないか」
杉田は号令を発した。
信念の言葉があった・・・
「五分五分ならばやる方にかける」
海中で始まった砂の吸い出し作戦、見事成功した。
昭和63年 4月 瀬戸大橋は開通した。
名指揮官と称えるまわりに杉田は言った・・・
「事を計るは人にあり、事の成るには天にあり
個人の業績など、まことにけちくさいことなのである」
その後、杉田は現場に立とうとしなかった。
昇進も望まず、男でひとつで3人の娘を育てた。
朝晩の食事を作り、片づけをし、娘たちの洋服にアイロンをかけた。
平成元年 杉田は母校の高校で講演した。
伝説のリーダーは意外にも次の言葉を残した・・・
「橋をつくるということの経験が、人より多少に余計にあったからといって
これは人生の価値と全く別のことなんですね。
偉大なる人生とは、どんな人生を言うのかということなんですが
これは非常に難しい問題でありまして、瀬戸大橋をつくるよりはるかに難しい」
橋をつくり家族を守る、二つの大仕事を成し遂げた男の言葉だった。
杉田 秀夫 平成5年この世を去った。
杉田秀夫の言葉
「偉大なる人生とは何か、橋を作ることよりもっと難しい人生がある」
ん~ 橋を作ったことがないんで分からないんですが・・・
やっぱりもの凄い事だと思いますね!!
杉田秀夫さんの仕事に対する意気込み、勉強になるなぁ~
「なせばなる なさねばならぬ なにごとも ならぬは ひとの なさぬなりけり」
上杉鷹山は弱冠17歳で、米沢藩主として家督を継ぎました。
戦国時代の名将、上杉謙信公の流れを汲む名藩も、彼が藩主になった頃は激しい財政危機に瀕しており、ただちに藩の財政改革を行う必要がありました。
鷹山は「質素倹約」を信条とし、彼自身が率先・実行しました。若い藩主の厳しい改革に、当然のことながら先代からの重臣による強い反発もあったようです。
しかし彼は、藩政立て直しの心構えとして「なせばなる……」と自らに、また藩士藩民に説き続け、その結果見事に藩を立ち直らせたのです。
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プロジェクトXですね
感動しました
次いでに「黒部ダム」のプロジェクトXも良かったですわっ
「努力にまさる天才なし」ですね(*^o^*)
あーいうのを見ると気合が入ります。
頑張らにゃいかんと、自分に言い聞かせますね・・・
あののぼり何でしょうかね??
自分の店にもあったんですが・・・
わかりません(-_-;)
ちゃんと調べときます。